山口八幡社の由来

当社は古くは山口神社といわれ、醍醐天皇の延長四年編纂の延喜式神名帳に山田郡山口神社と記載され、本国神名帳にも従三位山口天神とあります。
その後、承久二年に清和天皇十二代の末孫山田次郎重忠が当地に八幡宮を勧請し社殿を造営。貞応二年九月十五日に竣工、同時に山口神社を合祀しました。
山田郡は室町時代中期に荒廃して春日井郡と愛智郡に別れ、当山口村は愛智郡に属し愛智郡の東端に三河との国境を鎮護する神社として崇敬されました。

毎年九月十五日に祭事を修め、翌十六日の大祭には近郷二十四ヶ村の村人全てが飾馬を率いて参詣しました。
社頭には六世紀末の古墳を始め鎌倉期の古窯及び当地方最古の鳥居などがあり往時の隆盛が偲ばれます。
明治五年には郷社に列格され近年まで郷社祭りが盛大に行われました。

火縄銃

山口神社

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山口村(現瀬戸市山口町)にあり。〔延喜式〕に山田郡小口神社とあり。小口は山口の誤字。〔本国帳〕に従三位山口天神としるせり。今八幡宮と称し、応神天皇を祭神とす。摂社多度祠・山神祠あり。往昔、当社の傍らに沼池ありしが、山田五左衛門というもの、菼馬にのりながら此池に陥ちて溺死せし故、当村あしげ馬を飼う事をいむ。〔風土記残編〕に、より人は 今ぞより来る 長はまの あしげの駒に 手綱ふりかけ といへるを、彼五左衛門が亡霊巫女に託して唱えさせしよし、所のものいひ伝えたり

尾張名所図会より

八幡社の歴史

宇佐八幡社
宇佐八幡社

八幡社の本宮は大分県にある元官幣大社の宇佐八幡宮(宇佐神宮)です。この宇佐八幡宮は、古くから朝廷とのつながりが深く、西暦七四九年奈良の大仏建立の折に守護神として手向山に勧請され、その神威を現し無事に竣工したとされています。

その後、南都大安寺の僧行教が『われ都近き石清水男山の峰に移座し国家を鎮護せん』との宣託を受け、都の南西の男山の地に宇佐八幡宮の御分霊を勧請し石清水八幡宮としました。

また、源頼義は氏神として敬い、康平六年鎮守府将軍として東国出兵の折、石清水八幡宮の御分霊を鎌倉の由比ヶ浜に歓請しました。その子義家は石清水石清水八幡宮八幡宮の神前で元服した事から、自らを八幡太郎義家と呼び、八幡宮を敬った。治承四年源頼朝は鎌倉に入り直ちに由比ヶ浜より鶴岡の地に八幡宮を移し源氏の氏神として主従共々敬いました。

手向山八幡宮
手向山八幡宮

石清水八幡宮
石清水八幡宮

建久三年鎌倉幕府の成立後、さまざまな幕府機関が設けられ、その内の守護・地頭が全国に配置されると、八幡社は彼らによって各地に祀られる事になりました。その勢いはすさまじく、多くの在来の神社が合祀された。この様にして八幡社は全国各地で最も親しまれる神社となってきました。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮